日常ステッキ(転んだ先の知恵)

限りなく偏愛に満ちた音楽、映画、文学、アート、その他日常に感じる素敵な事柄、あるいは事象に関する覚え書

静謐なる詩人たちを、“ドーン”と聴いてみよう!

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SAVE THE DAY -SILENT POETS SPECIAL DUB BAND LIVE SHOW the MOVIE-

90年代にデヴューした当時から
このサイレントポエッツがずっと好きで
長年アルバムもちゃんと聞いてきたし、
何でもよく知っているつもりだったのに
昨年六月渋谷で行われた25周年ライブのこと、
このライブドキュメンタリーのことさえも
まるで他人事のように忘れて過ごしてきたことに、
少しばかり、後悔の念が芽生えていた矢先、
なんとか、劇場公開期間には間に合った。
晴れ渡る空、流るる雲、時々雨。
それまでのモヤモヤはどこかへ吹きれた。
何だろうか、この爽やかな感慨は。
あたかも旧友に再会した気分とでも言うのか。

そういえば「ヴァンサンカン」っていう雑誌があったけな、
25年か、ひとえに四分の1世紀だな。
低迷していたカープ
黄金期を迎えるのに費やした年月と同等ぐらいか、
などと、どうでもいいことをうだうだ考えていたのは
映画が始まる前までで、
そのステージの記憶/記録が再生されるや否や、
時空を超えてドップリ、その世界に舞い戻る自分がいた。

にしても、25年の重みはそれなりにズシリと重い。
ダブのベースのような重さだ。
決して軽いとはいえないが、
かといって、手に負えないほどの
陰鬱な重さなどとは無縁で
とにかくどこまでも美しいのだ。
ひたすら美しいサウンドスケープのなかに
解き放たれ雄大に大空を舞う鳥にでもなった気分がした。
同時に映し出される映像とリンクしながら
サイレントポエッツの音は、
豊かな空間に散りばめられた音の宝石を
ひたすら無になって啄む鳥たちの為にあるような
そんな孤高の響きがする。
入れ代わり立ち代わり、
ステージを彩るゲストミュージシャンを横目に
一人クールに黙々とトラックを操作しながら、
その歓びを噛みしめるそんな下田のクールな姿が印象的だ。

新作『dawn』が12年ぶりということも驚きなのだが
その分、様々な参加ミュージシャン達を迎えて
それまでの沈黙が嘘のように
瑞々しく奥行きのあるサウンドを十二分に展開している。
時の流れ、進化や変化ももちろん感じるけれど
根本的にサイレントポエッツの姿勢は変わらない。

今回初めてというか
地明かりのない薄暗いステージの上で
総勢11人の大所帯ダブバンドとしてみせた演奏は
過去の曲に新たな解釈と新鮮な命を吹き込んでいるが
映画の冒頭でイギリスのDJドン・レッツが
興奮しながらその思いを語っていたように、
空間の開放的、圧倒的なオリジナリティがあり、
映像から見られるように、映画的でもあり
音に宿る物語性、つまりはその叙情が時に胸を締め付ける。
それは生ではない映像からでも、何ら変わらなく伝わってくる。
その幾重にも重なった音と音の狭間に
素直に身を浴しながら
まるで瞑想をするかのように聞き入ってしまう音霊
かけがえのない時空の交信ができた。

世間には順風満帆だと思われたバンド活動も
本人によればそれなりに紆余曲折があったというし
その沈黙でさえも、
サイレントポエッツらしい歩調であるかのように思える。
ゆえに、この25年の活動を祝福をするために、
少しでもその音、存在に惹かれるものなら
こうした劇場空間に駆けつけて
ゆっくりと身を委ねるべきなのだ。
サイレントポエッツが特別な存在で
下田法晴というミュージシャンが
いかに他の音楽家と違っているかがわかるはずだ。

Memory,Life,Moment...
下田法晴のトラックには
映像を喚起させるタイトルが決まって並んでいる。
『To Come...』に参加していた
テリー・ホールやヴァージニア・アストレイといった人選も
まさに自分好みだったが、
新作『dawn』では、
年齢、性別、国境を超えた
多彩な顔ぶれがフィーチャーされ、新たな発見も多い

5lackとNIPPSといったラッパーたちを始め
イスラエルの女性MCMiss Redや
ニュージーランドのレイラ・アドゥ、
ポール・クックの娘ホリー・クックに、
オーガスタス・パブロの息子であるオーディス・パブロ、
といったレゲエシンガー、
あるいはD.A.N.で活躍する櫻木大悟などに混じり、
何と言っても下田が影響を受けたという、
ミュートビートこだま和文の参加は感動的だ。
このダブとトランペット。
これほどまでに相性のいい組み合わせはまたとない。
ライブステージでもその空間に溶け合い
改めてその存在感の大きさには
こちらも思わず胸が熱くなった。

サイレントポエッツははじめから、
音響とビジュアルを同時に平行して捉えてきた
その意味では意識の高いバンドだった。
トイズファクトリー傘下の「bellissima!」レーベルでの
アートディレクションなどを見ても、
このアーティストがいかにビジュアルを多面的に捉え、
イメージの喚起にこだわってきたかが窺い知れよう。
そんな下田法晴の感性を支持してきたものとして、
この貴重なライブ映像にはとりわけ感慨深いものがある。

サイレントポエッツ=下田法晴となった今、
新たに踏み出した航海に
さらなる期待を込めてエールを送っておこう。


SILENT POETS - SAVE THE DAY Trailer -60s ver.-

dawn

dawn

 

 

素直に脳と癒えるヒトでありたい

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ハカイダー

オブジェとしての脳

ちょっと奇妙なもののいいかたた言い方だが
常日頃、脳ってものにはすこぶるお世話になっている。
そんな実感をたえず持っている。
適度な睡眠、栄養、健全なる思考ぐらいでしか
わが脳をねぎらってやれないことがなんとも不憫だ。
そのことからも、もし、頭をぱかっとあけて
脳みそを軽妙にさっと取り出して
最高のオシャレ着洗いの洗剤かなにかで
自らの手でやんわり揉み洗いでもして、
気持ちのいい晴天の日にでも虫干しできたらなあ
そんな奇妙な妄想に駆られることがある。

ははは、あなたってロマンティストなのね?
といわれ嗤われるのはまだしも、
馬鹿かお前は!気持ち悪いな!
そんな風に思う人がいたら残念ではあるが、
自分は昔からそういう人間なのだし、
意に介さず、与えられた装置としての脳を
最大限にリスペクトすべくフル活用し
イメージのなかで自由に遊ぶ術に身を任せ
妄想や夢想、思い入れなどに日々時間を費やすことに
まったくやぶさかではないといっておこう。
その前に、

オレの名は、オレの名は、ハカイダー
オレの、オレの使命、オレの宿命、
キカイダーを破壊せよ。

なんだか、この歌をふと口ずさんでしまうことがある。
これは石ノ森章太郎作『人造人間キカイダー』という
ヒーローものの悪役ハカイダーのテーマソングだ。
ハカイダーは、頭部が透明なヘルメット?で
(ちなみにキカイダーは機械脳である)
脳みそが白日の下に晒されているアンチヒーローで、
今視るとちょっとどうなんだろう、このキャラ?
と思わないでもないが、それはさておき
なぜだかキカイダーよりも記憶に深く刻まれている。

また、『まことちゃん』で一世風靡した
あの楳図かずお先生の漫画のなかでは、
これ、と言われたら、迷わず『洗礼』を挙げてしまう。
友達にかりて一気に読んでしまったのが懐かしい。

美貌で売ってきた若草いずみという往年の大女優は
子供のころから“美醜”や“老い”に対し過敏で
ゆえに職業病というべく、
あるときからその顔の皺や醜い痣に悩まされ
精神的に追い込まれ、若さと美貌をとりもどそうと
主治医にアドバイスを求めた結果、
なんと女児を産んでその娘に脳を移植をするという
恐ろしい計画を企てる。
そこからの展開もまたすごいのだが、ここでは割愛する。

まさにホラー漫画の傑作なのだが、
同時に、人間のダークな心理をうまくついており、
美醜に対する年齢的な恐怖は
なにも特別な感情ではなく、
だれの心内にも潜む一般心理として認識すれば
それを漫画化するあたり、楳図先生の感性に
心躍らずしていられないのである。

その『洗礼』のなかで
脳の移植があり、実際にそういう場面も描写され
この脳みそ丸出しのグロ劇画に、
ひとしれず興奮したのをはっきり覚えている。

要するに、自分はホラー恐怖症であり
グロに対する微妙な嗜好もちながら
関心だけは人一倍あり、
物質としての“脳みそフェチ”
というやつのおかげで好奇心だけは旺盛で
食わず嫌いをしなくて済んでいる。

さすがにサルの脳みそまでは
食指が動かないが、
白子やクルミをみていて
脳みそを想像して
にやりとしまうこともあるぐらいだからなあ。 

さて、そんな事は全て前置きで、
脳みそというものには
並々ならぬ興味を抱いているだけの話だが、
それはあくまで、脳が作り出した
偶然の戯れに他ならないといえなくもない。

はじめに言葉ありき

いま、空前絶後脳科学ブーム?とやらで、
お茶の間にもずいぶん浸透しているかもしれない。
脳科学者といえば、
医学者の権威であり、解剖学者の養老孟司氏をはじめ、
苫米地英人氏、中野信子女史、茂木健一郎氏と言った
凄腕の科学者たちが、お茶の間を賑わしている昨今だが、
それぞれの話は、それぞれに面白く、
なるほどなあと思うことが多々あって、
非常に勉強になる。
自分はそこまで熱心な脳科学信者ではないけれど、
しくみとしての脳科学というものには
目から鱗ならぬ、脳から髄液とでもいうのか、
感心することが多いのも事実だ。
非常に面白い学問だとも思う。

そのなかで、自分が納得するものを
自分でも実践していこうという、
ポジティブな思考ぐらいは、
たえずもっている人間だとは思っている。

だからといって、
彼ら専門家たちの話の単なる請負や小難しい話を
知ったかぶって展開しようとするつもりはない。
アファーメーションという概念が
とても心にひっかかっているので
それを強く意識しているぐらいだ。

つまり、“言霊”というのか
言葉の力を信じているからに他ならず、
すなわち自己評価を高めるための、
自己対話、自己暗示といいかえてもいいし、
それによって脳が勝手に
自己実現の思いの方向へと導いてくれる、
という概念のことをいっているつもりだ。

カネがほしい、有名になりたい、
美しくありたい、強くありたい、
きれいなおねえちゃんと知り合いになりたいetc。
なんでもいいのだけれど、
それらは単に願望であり、
欲望を言葉にしたにすぎないのだけれど、

かといって、だまっていても実現するものでもない。
だから、脳みそにそれらをいかに現実として
刷り込んでいくか、
それによっていかに行動へと移し替えていくか
ということだと解釈している。
要するに、いかに脳をその気にさせるかであり、
その意味での“臨場感”というものをたかめてゆく、
たしか誰かがそんなことをいっていた気がする。

自分としては“言霊”といってしまえば
すんなり理解できることなのだが、
要するに、初めにことばありき
それをもっともシンプルかつ
親しみやすい考えとしていつも念頭においている。
そのなかで、ポジティブ思考やら
自己評価の肯定感、エフィカシーを高めるだとか、
いろんな脳科学的用語がはいってきて、
最終的には、自己実現のための道具としての言葉
そのためのハードが脳というものだと考えているにすぎない。

まあ、どう理知的に言葉を書き連ねても
所詮言葉は言葉だ。
でも、確実に自分の個性(魂)を宿し
道具であり武器であるがゆえに、
決しておろそかにはできないものであり
それらをいかに価値あるものに意味づけしたり
価値観を肯定できるものと出会っていけるか、
ということを意識している。

自分としては、『ハカイダー』や『洗礼』
クルミなどに惹かれる理由を
わざわざ脳みそというものの物質性から
つまりはオブジェ的な側面を持ち出して語ってみたが
それは脳により強く印象づけるための口実にすぎず
すべては人間が視覚的要素というものに影響を受け
脳にまで大きく影響するからであり、
また、言葉のもつ力を
より引き出すためのフリとして扱ったにすぎない。

だから、自分はまず、
言葉と視覚をある種の共犯関係としてとらえ、
そこにこうして書くという直接的なアウトプットによって
より確かな記憶への刷り込みを行っているのである。
こうした考えはおそらく脳科学的見地からも
すこぶる有効な手段ではないかと理解している。

暦限り、命がけの不遇の不義密通者たちへの鎮魂歌

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近松物語』1954 溝口健二

2019年のカレンダーが、
かなりイレギュラーだということに敏感な人が
どれぐらいいるんだろうか。
良いか悪いかは別として、
GWはそのおかげで驚きの十連休だし、
その他天皇関連の行事によって、
カレンダー業界に関わるものたちは
多少なりとも混乱させられたはずだ。

来年オリンピックを迎え、
うるう年の上に、屋号がかわり、
一年を通じてイレギュラーな日程になり、
さらに、複雑なことになるのだが、
国民は決定された事実を、
厳粛に受け止めるしかなく、
たかだか今年来年限定の話だとはいえ、
覚悟するしかないのである。

覚悟をきめた人間ほ強いものはない、
という話にのちほどつながるのだが、
ひとまず、それはさておき、
昔の人はどうしていたのかしらねえ?
そうつぶやくのは、割りを食う職人さんの声。
そんなことから想い馳せると
近松門左衛門『大経師昔暦』が浮びあがる。

その前に「大経師」というのはなんぞや、というと
かつて、巻物の表装に携わっていた「経師」
その長が「大経師」ということになり、
それが、江戸期になると
幕府から暦の版行・販売権を預かるようになり
そこで暦を一手に引き受ける独占業者として君臨。
町人ながらも名字帯刀まで許されていたというから、
暦がいかに値千金であったかという話を
物語っているように思われる。
もとは朝廷御用達の職人なわけだから、
それなりの格調高き地位にあったわけで、
そんな前ふりこそが、
話をいっそうドラマチックに仕立てたともいえる。

さて、そんな近松の『大経師昔暦』だが
ここでは溝口健二の傑作映画、
近松物語』をお取り上げてみよう。
何しろ、今から70年近く前に撮られていたとは思えない、
この恐ろしいまでの国宝級である傑作を、
雑には扱えず、
またスルーするわけにはいかぬのだ。
以下は、その話である。

京の都でかような恩恵に浴し
その巨利を得ていたのが大経師以春である。
とにかく欲の皮が突っ張った筋金入りのドケチ。
そのくせ女癖が悪く、権力にもすこぶる弱い
今も昔も変わらぬおだいじんさま員子持ちの縮図、
といえば聞こえが悪いか。

そんなところに、
“どえらいこと”が起きるのである。
いわゆる不義密通というやつで、
いまでいうところの不倫であるが、
時代が違えばこうまで違うものだろうか?
犬畜生同然のなんともあわれな、
そう思わざるをえない理不尽な扱いである。
単なる男女のもつれだけなら、
まあ、気持ちはわからぬでもないが、
幕府の直々息のかかかった
「大経師」のお家騒動ということで、
いまなおかたりつがれる「おさん茂兵衛」物語は
不義密通者には洛中引き回しの上、処刑にて磔、
しかも家まで取り壊しという結末がまっている。

それほどのことまでをしての危険な恋愛沙汰ゆえに
この話は、当時の人々の胸を打ったに相違なく、
当然、都の民衆たちの耳に入らぬ訳も無く
それを西鶴は、この姦通譚を
男女の情愛のもつれに重きを置いたが、
近松は、悲哀としてとらえ
浄瑠璃にして、世評を博したのを下敷きに
その両者の間をとって
依田義賢が脚本を書いたのがこの『近松物語』である。

何度も書くが、溝口作品のなかでも、
一二を争う最高の出来映えで、かつ、
日本映画屈指の名作ではないかと思うのだ。
そんな溝口組の屋台骨は、
当時の蒼々たる面子で固められていた。
撮影は宮川一夫、美術は水谷浩、音楽に早坂文雄
その他をひとくくりにするのは申し訳ないぐらいだが
名前の知られていない職人たちがわんさと控えている。
何しろこの映画にかかわるスタッフみな凄腕ばかり。
台本にはじまり、衣装、小道具、習慣にいたるまで
綿密な時代考証をへて執拗なテストをくりかえすという、
震えるような現場で
隅から隅まで超一流揃いだからこそ、
なしえた匠の業がここにある。
兎に角見応えがあるのもうなづけよう。

1954年というと、
同年には黒澤組の『七人の侍
木下恵介二十四の瞳』や成瀬巳喜男『晩菊』、
そこに『ゴジラ』を加えてもいい。
そうした数々の名作が公開されていることからも、
いうなれば日本映画史上黄金期といっていい

そこへ天下の長谷川一夫様のお出ましである。
もっとも、当時の大映永田社長の鶴の一声で、
この人気スターが抜擢されたらしいのだが、
どうころんでも溝口好みの俳優ではない。
むしろ当初は足かせだったのではないか。
だから、よくOKを出したものだが、
結果的にはうまく収まってはいる。
演技には厳格な溝口に、
スター長谷川一夫が合うはずもない。

いわゆる目で芝居をするこのサービス的形芝居に、
演技には俳優たちの“反射”、
つまりは役になりきっての本物の芝居を
徹頭徹尾要求する鬼の溝さんとじゃ、
まさに水と油である。

監督はそんな俳優に、
「君ッ… 茂平ですよ。
形芝居は駄目です!反射して下さい。」
そう叫んだというし、
なかなかOKのでないシーンでは
「溝口さんはいっつもこんなふうなんか…。」
とスタッフに長谷川はこぼしたという。

“反射”とは、溝口がたびたび口にしたという
役になりきった俳優が理性を越えて立ち現れる
究極の演技のことだ。

おさん役には当初木暮三千代を想定していたというが
そこに若手というべき香川京子を大胆に抜擢し、
こちらはその初々しさが功を奏したというべきか。
男が花形ゆえに、美男美女では現実味が削がれる。
駆け出しではないが、
当時若手の香川京子の抜擢には勇気がいったはずだ。
画に新鮮みを与えたのは間違いなく
画を崇高なるものにしているとさえいえる演技を見せた。

格でいえば、落差が大きいわけだが、
そこをうまく、これほどまでの傑作に仕上げた
溝口の手腕に舌を巻く。
何しろ、長回し、ワンカットワンシーン、
ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠達をも
うむをいわせず熱狂させてきた監督である。

俳優陣も、脇に至るまでなかなのくせ者ぞろい、
とにかく芸達者なワルたちが、
男女の不倫ものを、
不義密通御家取り壊し大転落悲劇への仕掛人として
描き出しているのが素晴らしい。

まずは、溝口組常連の進藤英太郎
なにぶん不可欠で、
よほどの信用があったのだろう。
悪役と言っても、この人ほど、
味のあるいやらしい悪役を知らない。

そこに、番頭の助右衛門こと
小沢栄(のち栄太郎)である。
この人もまた、ねちっこく、
小狡く立ち回る役をやらせれば、
右に出るものがいないほどである。

おさんの実家である岐阜屋の母親は浪花千栄子
兄道喜には田中春男
元はと言えば、おさんの兄この道喜が
波風をたてたのである。
借金を工面せんと妹おさんを頼ってきたのが、
けちのはじまりで、
ただでさえ、お家の事情で、無理矢理嫁がされ
本意からの嫁入りでもないおさんとしても、
板挟みを食うのである。
そして、困ったはてに、
使用人茂兵衛に相談したことがことの発端であり、
夫以春をこらしめようと手を打った芝居から、
なにがどうころんだか、
まさにミイラ取りがミイラになった話でもある。

それにしても、事が大きくなり始めても、
自分たちの保身しか考えない人間たちと、
ますます純粋なる恋に燃え盛り
強固になってゆく恋仲ふたりとの対比が
面白く見事である。

最後まで見どころ満載で、
いちいち感嘆してもきりはないのだが、
この映画のハイライトは、何と言っても
琵琶湖で心中を試みるシーンからの、
恋愛加速の逃避行ということになるのだが、
何しろ、それまでは、
まだ自分たちの本心には一切触れ合わず、
事のけじめとしての身投げのつもりだったが
茂兵衛の告白で、おさんの心に火がついてしまう。

「おまえの今の一言で、死ねんようになった、
死ぬのはいやや、生きていたい」

そう言い放ち、感情のまま抱き合う二人。
ここからのスリリングな展開は
まさにクライマックスへの序章だ。

この映画の特徴というか、
骨格には明確なリズムにある。
そのリズムを司っているのが早坂文雄によるスコア。
歌舞伎で使用される下座音楽を使い、
日本の楽器をベースに独自に洋楽器も加えられ、
オリジナリティ溢れるスコアになっている。
これだけ切取っても、革新的な作品なのだ。
ストーリーともうまくからみあっており、
役者たちの醸すリズム、間、調子が
映画を実に拡張高いものへ押し上げている。

たとえば、主人の許可なしに印判を押し、
金の工面を図ったところを咎めらるシーンの
鼓を使った間合いなどは、まさに職人芸、芸域だ。

そして、この映画は、
冒頭、見知らぬ不義密通の晒もののシーンで幕をあける。
「これから磔にあって、さらしものにされるんや、
本人だけやない、お家の恥や」と主人が言えば
「あんな浅ましい目に会うくらいなら、
いっそご主人に打たれてしもうた方がええのに」
と女房が言う。

このやり取りの後に、
大太鼓のドーンドーンという
地の底から響くような音が聞こえてくるシーンが、
いうなれば結末の動線となっているのである。
そしてそのラストシーンで
市中引き回しの刑に二人が取って代わり
かつて家に奉公していた人間の声がもれ
「お家様のあんな晴れやかな顔見たことがない」
「茂兵衛さんも晴れ晴れしたお顔で、
ほんまこれから死にはるんやろうか」
そんな声がもれてくるなか、
再びドーンドーンという大太鼓の音に
無常観漂う横笛がかぶさり
最後拍子木の音でフェイドアウトする。

観ているほうもどっと疲労が襲う。
けれども、なんとみごとな悲哀物語なのであろう。
感嘆せずにはいられない二時間弱。
天和3 (1683) 年9 月 22日姦通の罪で
非業の最期を余儀なくされたおさん茂兵衛も
約三世紀の時を経て
ようやく銀幕の楽園で浮かばれたに違いあるまい。

永遠の“アソビゴコロ”をこころにハロー

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顔たち、ところどころ ©Agnès Varda-JR-Ciné-Tamaris, Social Animals 2016

卒寿にとどかんという巨匠アニエス・ヴァルダが、
写真家JRとの共作で撮り上げた
ドキュメンタリー映画顔たち、ところどころ』を観た。
ありきたりのドキュメンタリー映画でもなく
限りなくフィクションを意識させる、
ひたすら当てもなくフランスの片田舎を旅する
洒落たロードムービーである。

ヌーヴェル・ヴァーグの作家達による
パリところどころ』というオムニバス映画があったけれど、
邦題はそれを意識しているのかもしれない。
そんなフランスの田舎のところどころに
二人が出向いて人々を捕まえて写真を撮る。
町も人も素朴ながら、
それぞれの人生の色につつまれている。
そして、おのおのの建物の壁面に、
巨大な写真を貼りこんで、
それを特別なモニュメントとして、
村に、町に、廃墟に、
軌跡を残してゆくプロジェクトが
この『顔たち、ところどころ』の骨子であるが、
それを成し遂げてゆく
歳の差54歳の二人の友情ドキュメンタリーでもある。

それにしても、なんてステキな映画だろう。
人生の素晴らしさが、
宝石のように至るところにちりばめられている。
ものすごくホンワカもするけど、
要所要所ヒネリも効いているし、かと言って、
全然こ難しい映画というわでもない。
それでもって全然大作然としていなくて
完璧過ぎるわけでもないから自然に入ってゆける。

自分もまた傍観者ではなく、
この映画に参加している気分になれる。
けれども見終わると、
ものすごく残るものがたくさんある。
観るもの、映画に携わった人々
みんなを幸せにする映画で、
こういう作品を観ると、
フランス的というか、国民性というか、
国のもつ器みたいなものを、
否が応でも考えさせられるんだなあ。

JRという人は、まず、当たり前だけど、
鉄道なんかには関係なくって、
写真ブース付きトラックをもっている。
写真を撮って、それを大きく引き伸ばしたプリントを
壁面に貼り込んでゆくアーティストである。
本人は、photograffeur(フォトグラファー)=
フォトグラファー+グラフィティ・アーティスト
というストリートアーティストという認識らしくって、
今世界をまたにかけた活動で知られている。

その自由な感性とアニエスとの相性が
抜群にフィットしているから、ほんとうに面白い。
アニエス・ヴァルダは言わずもがなで、
ヌーヴェルヴァーグの祖母」
などと言われるほどのカリスマ女流作家だ。
どちらかというとヌーヴェル・ヴァーグの枝派、
セーヌ左岸派の人で、
というか、そんなことなどどうでもいいが、
元が写真家上がりだからこそ、息が合うんだろうな。

浜辺に突き刺さったオブジェみたいに放置されている、
ドイツ軍のトーチに、アニエスの古い友達で
彼女が撮ったギイ・ブルダンの写真を貼るシーンも感動的だ。
残念ながら写真は一日で潮に流されてしまうのだが。
時の無情さなんかも感じさせるところだ。

『ラ・ポワント・クールト』でデヴューし
『5時から7時までのクレオ』や『幸福』『冬の旅』など
彼女が手がけてきたのが、
常に女性の自立をフィルムに焼き付けてきた
フェミニストシネマであり、
ドキュメンタリー作品も多数手がけている作家で、
それゆえの視点が、ところどころ明確に立ち現れる。
炭鉱労働者の村の女性、
ヤギの角を切らずに飼育する養牧者、
港湾労働者の妻たちへのクローズアップには
アニエスの視点が色濃く反映されているのだろう。

パートナーで、同じく映画作家だった
ジャク・ドゥミは、すでに他界して久しいが、
今尚現役で元気に活躍しているんだから、恐れいる。
とても八十八には思えない若さがあるし、
何より、感性が全く老いていないからステキだ。
そして全編アニエスの可愛らしさに微笑んでしまう。
その、まさに祖母と呼んでいいアニエスと、
友達のように、対等に作品を楽しんで
共に作り上げていくJRもまたステキだけど
ふたりはサングラスをめぐって
とるにたらない喧嘩をしてみたりするところもいい。

ナタリー・サロートの家や
アンリ・カルティエ・ブレッソンのお墓を尋ねたり
アニエスの人生そのものをめぐる旅としても面白い。
そんな様々なサプライズのなかで
この映画をさらに楽しませてくれるのが、
サングラスをめぐるくだりだ。
サングラスをとらないところが、
なんとなくJLGを彷彿とさせるから、
そこがまた、この作品に上品な謎解きを仕掛ける。
で、そのJLGがアニエスに向けサングラスをとった
貴重な映画のシーンを挿入してみたり
『はなればなれに』の中ルーブル美術館のシーンで
鑑賞時間を最短で走りぬける
というお遊びの場面を引用して、
車椅子に乗せたアニエス
JRが子供みたいに押して走るシーンだったりと
なんともお茶目で楽しい演出もある。

そんなおり、旧友というか、
同志であるJLGをスイスにまで訪ねるが、
JLGは姿を現さない。
気まぐれなんだか、意地悪なんだか、
そこは老いてなお健在。

この映画の革命児のすることは
シャレが効いていて、
アニエスたちがやってくることを想定して、
家を尋ねるとガラス戸に、
メッセージだけでのお出迎え。
“ドアルヌネの人々へコート=ダジュールの方へ”
“ドアルヌネ”というのは、
昔、アニエスの夫ドゥミやゴダールらの
常連だったレストランの名前らしく、
“コート=ダジュールの方へ”は、
アニエスの作品のタイトル名だ。
つまりは、旧友に対するJLG流の、
あいも変わらぬシニカルでクールなもてなしというわけだ。
アニエスは悔しさからか、涙を見せる。

そんなアニエスとJRはレマン湖に佇みながら
感傷的なアニエスに、
サプライズのサングラスをとるプレゼント。
JRの粋な計らいに
「あなたって優しい人ね」とつぶやく。
恋人のようで、友達のようで、孫のようで、
なんといってもアーティストふたりの共作映画
顔たち、ところどころ』の
何とも素敵なエンドロールは
レマン湖のさざなみのように、
かくして人と人との温もりを
余韻を残して終わるのであった。

今こそ美醜の彼方のワンダーランドにて

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KON MICHIKO

どんな天使のような赤ん坊であれ
絶えず血や羊水にまみれていても
ひとたびこの世にその産声をあげてしまえば
だれもがその神秘を愛さずにはいられなくなるだろう。
そうした生々しい生の側面に微笑みはしても
だれも目を背けたりはしないはずだ。

人は混沌たる未知なるものに対して
畏怖すればするほど、
無意識にそのイメージから離れがたくなるものだ。
ところが日常には至る所。
目を背けたくなるようなイメージが横溢し
視ることの純粋なる視座が
なにぶんゆがめられてしまっている。
そうした視線のノイズを、
極力カットするためのフィルターとして
ユーモアや遊戯精神は不可欠な要素になってくるだろう。
目の前にとびこんでくる今道子の写真を前に
その美醜の境界に釘付けなった視線が
いったんそれをキッチュだと認識したとき
自分がこのワンダーランドの住人たることの謎を
忘れてしまうだろう。

静物』と名付けられた一連の作品に漂うのは
黒い微笑み、黒いエロティズムの大胆な静けさである。
生の魚介類が、この写真家の遊戯精神によって
下着になったり、帽子になったり、
他の鳥や昆虫、花といった“オブジェ”とともに
刺激的な構図として再構成されるのだ。

その毒々しいまでのインパクトは、
網膜上で、絶えず通過と反射の儀礼を余儀なくされる。
文字通り彼女のしもべとなった「静物」たちが
審美眼をかく乱するのだ。
グロとメルヒェンが交互に顔をのぞかせる
その両義性の中に
彼女の内的夜が黒々とさらされている。

しかし、彼女の写真ほど
ファジーなものから隔たったものはない。
あたかもビル・ブラントの写真をみるような、
光と影の強い明確なコントラストによって
浮き彫りにされた対象への視線は
瞬時に黒白の決着を余儀なくされてしまうだろう。

そのアプローチには、どこかイタリアの画家
アンチンボルドのトロンプルイユ(騙し絵)と
比較されることもあるが
いったん目を背けてしまえば
悪趣味のレッテルを貼られてしまうはずの
この写真家の黒い微笑みの裏側には
嗜好を直感型に促す死とエロス臭がたえず広がっている。
それはアリス的探求、あるいはマン・レイ的なダダ精神、
狂気と悪夢とポエジーアマルガムによって
世界観を創造して来た
シュワンクマイエル、あるいはウィトキンといった隣人たちに似た
キッチュの領域で咀嚼した格調高き
錬金術のような今道子の宇宙は
どんな腐敗よりもゆるやかに脳髄の溝を徘徊しながら、
新たなる黒い渦の中をかけめぐってゆくだろう。
そこには 「空豆の中で夢見ていたい」という
彼女のもつ闇よりも純度の高いロマンティズムが
黒々と横たわっていることに気付かされるだろう

かつて巴里にはイジスという名で愛を維持する写真家がいた

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『GALA DAY LONDON』1952 IZIS

写真と詩の美しき婚姻をブラボーレーションと名付けよう

人生は愛に包まれていると
美しく、微笑みたくなるものだ。
そんな当たり前のことを
さりげなくみせるのが、
写真のもつ魔力のひとつである。

生きる為に働かねばならず
人生は思うようにはいかない。
当然誰にも泣き笑いがあり、
さあ、いったい明日はどんな一日が訪れるのか、
神のみぞ知るところだ。

いずれにしても、
あらゆる一日に、夜は訪れる。
そして朝がくる。
どんな人間も、愛を欲し、
世界中で、老若男女が恋している。

そんな瞬間をいかにセンスよく切り取るか、
まさに、そんないたずらな微笑みを携えた街
そんな花の都パリに
愛し愛された写真家は数知れない。
アジェ、ブラッサイブレッソン、ドアノー。
そしてイジス。

戦火の中で平和と愛を夢見たユダヤ人、
旧ソはリトアニア出身の写真家
イスラエリス・ビデルマナスは、
フランスに亡命し当初は画家を志望するも、
おそらくは生活の為に、
写真を選ばざるをえなかったのだろう。
フランスに帰化してまで
そのパリに活躍の場を求め
イジスという名で
主に「パリマッチ」のフリーランスカメラマンとして活躍した。

かつてのパリには、世界中から芸術家が集い、
錚々たる詩人や画家の巣窟だった。
その自由な空気に恋い焦がれた芸術家は数知れず、
イジスもまた、そんな空気を嗅ぎつけた一人だった。

蜜蜂のごとく街中を飛び回り、
社会の端っこにいる、
自分と同じように、
どこか人生からはみ出したような
弱い存在に好んで目を向け、
カメラひとつで世界を切り開いてゆく。
そんな彼の一途な眼差しが、
詩人や文学者の支持を得て、
イジスは見事に花開くのである。

異邦人としての眼差し色濃く、
それらの写真は、
時代や国境を越え、様々な色に変化してゆく。
時に痛々しくも切なるきな臭さい背景をもちながら
ユダヤ人としての血を通して、
人生の悲哀を綴った彼の戦いの軌跡でもある。

イジスの写真集には、時代に名を馳せた、
フランスの文士たちが顔を連ねている。
コクトーブルトン、エリュアール...
とりわけ仲の良かったのが
詩人ジャック・プレヴェール
『Grand Bal du printemps(春の大舞踏会)』
『 GALA DAY LONDON(ロンドンの魅力)』
『Le Cirque d'Izis(イジスのサーカス)』
といった三冊の写真集が残されており、
詩と写真による愛を伝える美しきコラボレーション、
まさに愛に満ちた讃歌となっている。

言葉は胸を打ち、
被写体がより一層愛おしいものになる、
そんな粋な交感がなされているのだ。
重要な画家、写真家の周りには、
必ずと言っていいぐらい、
優れた詩人の存在があった。
それが、パリという街の魅力でもあった。

この連帯の意識に守られて、
イジスのカメラの前には、
兵士、女の子、子供、動物、大道芸人など
それら被写体になった他者との
愛おしい距離が雄弁に語られる。

写真、それはイジスにとって
愛を語るもっとも簡単な手段だったに違いない。
そんな写真家のことを
忘れずに胸に刻んでおきたいと思う。

IZIS―パリに見た夢

IZIS―パリに見た夢

チョコはビターがモアベターよ、とパン屋の色男はいう

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chet baker 1929-1988

一年に一度の聖ヴァレンタインディ。
甘いチョコをもらったのはいつのことだったか
随分前の思い出だ。

静脈に流し込みたくなるほど
甘い甘い手作りのチョコとキッスを贈ってくれたあの娘、
ぼくをハニーと呼び
スウィートヴァレンタインとよんでくれたあの娘は
いまどこで何をしているのだろうか?

しかし、そんな甘美な思い出は
すぐさま苦い思い出に成り果ててしまった。
あの日あのときのことを時々思い返すと胸が痛くなる。
それ以来、チョコはビターの方が齧り甲斐がある、
そんな風に思うようになった。
ロマンの欠片とともに
棘まで呑み込んでしまったかのようだ。

だから、ヴァレンタインディには、
少々苦味の効いたチョコと
「My Funny Valentine」があればいい。
多くの人がカヴァーした名曲だが、
彼のスウィートな歌が入ったやつがいい。
やはり、チェットのバージョンが一番いい。
一番しっくりくる。

My funny Valentine, sweet comic Valentine
You make me smile with my heart
Your looks are laughable
Unphotographable
Yet you're my favorite work of art
Is your figure less than Greek?
Is your mouth a little weak?
When you open it to speak
Are you smart?
But don't change a hair for me
Not if you care for me
Stay little Valentine, stay
Each day is Valentine's Day


あたしのへんてこりんなあなた、愛しの面白おかしいあなた
あなたはいつだって心からあたしを笑顔にしてくれる
外見からして笑えるし
写真だって見栄えはしない
でも、あたしにとってはあなたが最高傑作の芸術品なの
容姿だってギリシャ彫刻なんかより弱々しいし
口を開いたと思ったら、
あなたってほんと気がきいていなくない? って思う。
でもね、だからって
あたしのために髪の毛1本だって変えて欲しくないのよ。
あたしのこと大事に思ってくれているならやめて。
ずっとそのままのあなたでいて欲しい、
愛しのあなたのまま、そのままがいいの。
あたしには毎日がバレンタインディなのよ。

チェット・ベイカーの音楽には、
紛れもない青春のにおいががする」
と言った村上春樹氏には大いに賛同する。

1988年の5月13日、
いみじくも金曜日の推定深夜三時頃に
滞在先のオランダのホテルの窓から、
謎の転落し、この世を去ってしまった、
チェット・ベイカー
ジェームス・ディーンに比べられるほど、
精悍なマスクと甘く気だるい歌声で、
ジャス界の寵児と呼ばれ
ウェストコーストで人気を博した
クールな白人トランペッターだが、
薬物に手を染めたばかりに
その後の人生を踏み誤ってしまったのだ。

もし、チェットがこの歌のハニーのように、
容姿も優れず、 気も利かない
そんな魅力のないさえない男だったなら、
そもそも、あんな素敵な音楽を
奏でることなんて出来なかったのかもしれない。

けれども、なまじイカした男に生まれ
才能にも恵まれてしまったがゆえに
チェットは、薬物に足下をすくわれ
まさに、順風なる人生の窓から転落し
空き缶のように転げ落ちていってしまった。
皮肉な話だが、それが、かえって美談として
いまなお語り継がれてゆく。

ずっとそのままでいさえすれば
毎日がヴァレンタインディになっていたかもしれない。
そんな切ない思いを噛み締めるには、
やはり、ビターチョコの方をかじるとしよう。
どうも甘ったるいチョコはいただけない。
別に苦味走るほど、良い男でもないけど、
ずっとこのままでいよう。
そう思う。

到底チェットのようなイカした男にはなれっこないが
それでも、チェットのように人を悲しませるような
そんな人間にはならなくて済むだろうから。

それでもやはりバレンタインの日には
チェットのトランペットと声を無性に聞きたくなる。


Chet Baker ~ My Funny Valentine