日常ステッキ(転んだ先の知恵)

限りなく偏愛に満ちた音楽、映画、文学、アート、その他日常に感じる素敵な事柄、あるいは事象に関する覚え書

美は敬遠的なものになるだろう

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André Breton 1896-1966

ボクは苦悩するクノーを支持するだろう

先日から読み直している『オディール』を読み終えた。
『オディール』、それはレーモン・クノー
自伝的な恋愛小説とされているのだが
いわばクノーとシュルレアリスムとの関係を
赤裸々に綴った内容からは
いつものあのちょっと癖のある
諧謔精神に基づいたクノー調、ではなしに、
傷つきやすく、繊細な青年クノーを浮びあがらせている。

クノーに関しては先日
文体くノ一、ウリポ言葉に痒ぃ〜言葉という記事を書いたから
それを参照していただきたいのだが
そこにアンドレ・ブルトンが提示した
このシュルレアリスムなる思想を巡っての
20世紀初頭の芸術運動そのものが関与してくるから
ここでは話はちょっとややこしくなる。

シュルレアリスム、といえばブルトン
この人物を避けては通れないことは間違いない。
“法王”とまで呼ばれ
そのシュルレアリスム宣言という絶対なる定義の主導者として
はっきり刻印された歴史を紐解くまでもなかろう。

だが、この“法王”の権威があまりに強度を誇りすぎたがゆえに
最終的には多くのもは除名、
もしくは自らその運動と距離を置くことになるのである。
要するに、『オディール』はこの権威者そのものへの、
クノーなりの冷ややかな感情が綴られているという訳だ。

そもそも、ブルトンという人は、
詩人でありながらも
グループを指揮したのはいいが、
除名やら宣言と言った教条的な姿勢を崩さぬゆえに
若き日のシブサワ氏などが皮肉をこめて
“先生”付けで紹介していたほどだ。

一方でパタフィジシアン、
つまりはアルフレッド・ジャリの流れを正統に汲むクノーには、
もちろんシュルレアリスム的な要素もあるにはあるが、
数学的な様式、ことさらコトバの魔力を駆使して、
日常をちょっとななめから捉え直す、といった風体からも
むしろ、ヌーヴォーロマン的側面を持った作家だから
水と油とまでは言わないが
似て非なる存在なのである。
間違ってもブルトンが終始こだわり続けた
自動手記の概念とは相容れぬところがあり、
それは「文体練習」というとても面白い試みなどを読めばわかる。

で、なぜクノーとブルトンか。
というのは『オディール』を読めばわかってくる。
クノーが愛した女性、オディールとは
ブルトンの前妻でもあるシモーヌの妹ジャニーヌのことなのである。
俗っぽい言い方をすれば、
そもそも、ブルトン自身がその浮名を流しや業によって
シモーヌと離婚する羽目になったにも関わらず
今度はその当てつけに
シモーヌから決定的な不倫返しをされてしまうに事欠いて
気分を概して、俺の元嫁とは一切関わるな、
などいう子供じみたことを、
義理の弟とはいえ、強要するものだから
クノーの方もへそを曲げてしまったというのである。
辟易したのだろう。

到底文学者同士の、
シュルレアリスムという格式高い論争といった類いの話ではない。
「美は痙攣的なものであろう、さもなくば存在さえしない」
こちらは自らの自伝的小説『ナジャ』の最後で
そう言い放ったブルトン
“痙攣”ではなく敬遠されてしまったのは
なんとも皮肉な話である。

ここではブルトンがアングラレスという登場人物で語られる
その人であるのは明白で、
要するに、クノーにとってのブルトン
義理の兄という関係性であり、
実は犬にも食わせられないほど他愛もない話だった気がする。

なるほど、当時の政治的な動きはわかるほど、
シュルレアリスムっていうのは
つくづく一種のカルト教団のようなものなんだな、と思う。
ボクの好きな作家たちは、多かれ少なかれ
このシュルレアリスムの洗礼をどこかで受けてはいるが、
結局は独自の世界を進むか戻るかしたヒトたちばかりである。
そこから一人取り残された格好のブルトンという人は
裸の王様ならぬ、不在の王様であり
ある意味孤高の人だったと想像できる。

「一人一党、徒党を組んではいけない」
とは、コクトーの有名な箴言のひとつだけど、
なるほど、コクトーシュルレアリストたちからは
一風変わったポジションにいたわけだし、
彼らから敵対視されていたのもよくわかる。

結局のところ、政治的であることとは、
作家であること、あるいは詩人であること、
アーティストであるいうこととは一線を画すもののはずだ。
ブルトンはそのことを『ナジャ』において
自ら体験しているはずであり、
そうした経験を踏まえて
「美の痙攣」を持ち出したはずの本人が
その矛盾にさらされてしまうのだから、
やはり、シュルレアリスムなどは所詮言葉の定義であり
リアルを超えたものにそもそもリアリティなどなく
どこまでも存在し得ないものの総体をめぐって
話しがかみ合う訳もない、そう思ってしまうのだ。

それでも、ブルトンという“カリスマ”のもつコトバや透視能力には、
感服しないではいられないのである。
『ナジャ』を読めばそう言わざるを得ない。
単なる××××女、と言ってしまっていいのかどうかはさておき、
精神病院から抜け出してきたような妖精ナジャに、
街角であって純粋に心奪われるこの法王の感性を
いとも簡単に厄介者扱いなどできるはずもない。
それならそれで、エルンストやマンディアルグと言った
他のシュルレアリストのメンツ同様、
素直にミューズを崇拝して懇ろにやっていればいいものを
この人にはそれができないのであった。
そこが只者ではなかった所以でもあるのだろう。

そのことを十二分に踏まえたとしても、
身内にこんなムズカシイ人物が構えていれば
誰だって逃げ出したくなる。
あのやんちゃ坊主、サルバドール・ダリですらついていけなかったのだ。
(ダリはその父権を前に、付いていけないというよりは
逃げ出したというべきなんだろう)
要するに、人間の意志を無意識下において
支配することなどどだいムリなことだし
いくら、凄い人だろうと、偉い人であろうと
嫌なヤツはどの社会においても嫌われるんだな。
その意味では、僕は断固としてクノーを支持したいと、
ここに宣言したい、それだけである。

クノーという人は
晩年政治的なものからはすっかり距離をおき、
ルネ・ゲノンの東洋思想(オカルティズムともいうべきか)に傾倒していた。
こちらはむしろ、ジャリのパタフィジックの延長線上に重なってくるものだから、
そこはブルトンにとっては痛し痒しだったのではなかっただろうか?
義弟にすれば、やっかいな義兄であった事だろう。

真にインスピレーションがわく者とは、決してインスピレーションがわくのではない、彼は常にインスピレーションのなかにいるのだ。
(「オディール」クノー 宮川明子訳 月曜社

オディール

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