日常ステッキ(転んだ先の知恵)

限りなく偏愛に満ちた音楽、映画、文学、アート、その他日常に感じる素敵な事柄、あるいは事象に関する覚え書

今こそ、ロウブロウのパンチがジワジワと効いてくる時代だ

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ロウブロウ・アートというジャンルがある。
聴きなれないかもしれないが、
見ればどうにも視覚に訴えかけてくることは間違いない。
美術史的な流れからはポップシュルレアリスムと呼ばれることもあるが、
ロウブロウという言葉は、元は“教養や知性の低い人”という定義から
アカデミックな美術教育を受けたアートに対する対義語のように使われている。
母国語で“無教養”と言われたら引っかかる。
違和感がある。
ストリート・アートやサブカルと言って
安易に片付けられても困るのだが、
何にしても無教養でたどり着ける代物じゃない。

無論アウトサイダーアール・ブリュットともニュアンスは違っているが
ここで定義に闇雲に時間を費やすつもりはない。
大雑把に言えばキッチュかつノスタルジックな哀愁を滲ませながら
カオスを伴いポップに微笑む自由なアートである。
こだわりなく、ボーダレスに面白いと思うものを直感的に取り入れてゆく感性。

見た目のおどろおどろしさや、
異物感を差し引いても偏愛したくなるもの。
そういうものがキッチュと呼ばれるわけだが
そうしたものを美術として認識することで
ロウブロウが生まれる。
別にデタラメでも下手ウマでもない。
そのポップシュルレアリスムゴッドファーザーと呼ばれているのが
マーク・ライデンである。
この世界に触れればロウブロウを無教養などと
訳すことはまずないだろう。

マーク・ライデンはウォーホルが辿ったように
商業イラストレーターからキャリアをスタートさせている。
名のあるミュージシャンのレコードジャケットや
本の装丁などを手がけているが
マイケル・ジャクソンの『Dangerous』や
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『One Hot Minute』
というアルバム、
あるいはスティーブン・キングの装丁などで絵が使用されている。

コレクターにはリンゴ・スターレオナルド・ディカプリオビョークなどがいることからも
その注目度の高さはうかがい知れる。
「個展」が開かれたシアトルのフライ美術館やカリフォルニアのパサデナ美術館では
それぞれに最高動員記録を塗り替えているというから
大衆がいかにこのロウブロウアートを待ち焦がれていたか
ということの尺度と言っていい。

乙女心をくすぐるなんともいえない可愛らしさと
容赦無く提示される残酷さが混合している。
ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルに影響を受けたというあたりは
丸尾末広、あるいは水野純子やヒグチユウコの世界
はたまた奈良美智なども含めて近しいと住人と言えるが
時代の波は確実にこうしたキュッチュなものに寛容で
そのベクトルが自ずと向かっているのは間違いないところだ。
グロテスクでありながらも
大衆は決してその関心の眼差しをそむけはしない。
むしろ釘付けになってしまうのだ。
そんな絵画の魅力。
それは自分の目で確かめるより方法はない。
仮に激しい嫌悪を催したとて、
それは関心の裏返しであり、
ここでは無関心だけが敵なのだ。

ロウブロウ、つまりは別に優等生を気取って
何も美術史に忠実である必要はない。
ボッシュブリューゲルの姿勢は正しかったのだ。
そうして考えると、シュルレアリスムの絵画にしたところで
実に礼儀正しく、格調高いアートのように思えてくるから不思議である。
別に禁じられてもいないのに、
馬鹿正直に人に好かれる絵を追い求めることはない。
そうした真の自由を武器に
感性がほとばしるロウブロウを支持したい。
もっとも、奇をてらっただけの
シュールで怪奇なものだからと言って、必ずしもなびくとは限らない。
そこはポップカルチャーという魔法のジャンルが
両手を広げて君臨しているのだから。
飛び込んで行けるか行けないか、感受性は問われるだろう。
その意味で、マーク・ライデンの絵の前では
たまらなく愛玩したくなる欲望を至極掻き立てられるのだ。