日常ステッキ(転んだ先の知恵)

限りなく偏愛に満ちた音楽、映画、文学、アート、その他日常に感じる素敵な事柄、あるいは事象に関する覚え書

ポランスキーの非尋常的臨場感は映画の神をも狂わせかねない妄想の宝庫である

f:id:sahizuka66:20191004133557j:plain

Repulsion 1965 Roman Polanski

いわゆる無神経でデリカシーの欠如した人間たち
(たとえば燃えないゴミの日に、平気で缶や瓶を一緒にして出すような感覚)には呆れるし、
周りに気配り一つできないずさんな神経の持ち主の行動には
イライラさせられるわけだが、
かといって、何事にもいちいち細かくって、
(たとえばゴミの分別のために、
家事相応の時間をかけ丹念に洗浄水切りまでするような性質)
重箱の隅を突っつくような偏執狂的、病的なまでに
他人にまでそれを強要するような神経には
場合によっては、狂気、殺気を感じとって
関わりたくはないというのが本音である。
物事には程度ってものがある。
そう、程度。

そう考えると、アベレージというものを扱っていては
面白い表現にはなかなかたどり着けない、
ってことにもなるのだろう。
あくまでも映画やドラマ、小説等
物語にまつわる話をしているのだが
人が興味を掻き立てられるストーリーを考えるとするなら
ある一定の程よいところからいかにずれているか、
そこをどうずらしていくかが腕の見せ所である。
面白いと思わせるような作品は
概してそうした程度を超えたレベルが
作り手の頭の悩ましどころで、
また、醍醐味でもあるに違いない。
あくまでフィクションの話だが、
それが現実とリンクしている場合はややこしい。

ポランスキーというポーランド人の映画作家
間違いなく変わった人だ。
元はユダヤ系の人間で、幼年期にはいわば“ユダヤ人狩り”も体験しており
アウシュビッツに連行された上に
母親はそのアウシュビッツでドイツ人に虐殺されている。
また、妊娠中の妻のシャロン・テート
カルト教団によって惨殺されたという痛ましい実体験を持つと同時に、
今度は自分が13歳の子役モデルに性的行為を強要した嫌疑をかけられ
裁判で実刑を食らったのもまた事実である。
それゆえ長い間、アメリカ本土の土は踏めない状況に追いやられている。
未だ、性的倒錯者のレッテルを根強く持たれているのだ。

要するに、なんだか深いカルマを背負って生きて来た人だということだけは
その経歴からも十分窺い知れる。
が、個々の作品を見ると、やはりこの人は
常人ではないと思わせるがゆえの、
天才的な映画を何本も撮っているのだから、
映画の神には愛され続けている稀有な人、ともいえよう。

映画において、精神の破綻を描く異常心理ものにたけ
それこそがポランスキーの真骨頂かなと思う。
中でも『反撥』を見たときのショッキングさは
時を経た今も消え失せはしない。
ポランスキーの中で一番と言われたら
間違いなく『反撥』ということになるだろう。

カトリーヌ・ドヌーブ若干22歳の時の作品で
これまた今やフランスを代表するベテラン大女優なのだが
ブニュエルの『昼顔』然り、ポランスキー『反撥』しかり
若い時分から異常な性の対象としての存在感が不思議にある。
男から見ると、そそる女でありながら、
どこか闇を抱えている女、そんなイメージがある。

それにしてもオープニングから、
不安に怯えるドヌーブの大きく見開いた目が
恐怖を誘導してくる。
まるでヒッチコックの映画のように扇動的だ。
要するに、彼女の眼に映るものは全て不審な対象であり
とりわけ、男というものに対しての許し難き嫌悪、
というものに支配された闇が広がっている。

ポランスキーの映画はこうして
心理的な恐怖感を高めてゆくのがとても上手だ。
壁がおろしい音とともに急に避けてみたり、
壁が粘土のように柔らかく、押し付けた手の形がついたり
あるいは天井が近くなってきたり、
そんな視覚に訴えかけるイメージを駆使し
じわじわとその怖さを募らせてゆく。
芽の伸びたジャガイモや丸焼けのうさぎなどのショットも
一度見るとトラウマになりそうなものをうまく使って
異常さを醸し出している。

かと思えば、
時を刻む時計の音だけで展開される、男に強姦される妄想のシーンや
コンセントを差さないでアイロンをかけるシーン、
壁から唐突に現れる手の不気味さ異常性は
まさにポランスキーならでは異常性として記憶に焼き付いて離れない。

チコ・ハミルトンの音楽もさることながら
これほどまでに音が細部にわたって恐怖を演出する映画も珍しい。
ギルバート・テイラーによるカメラワークで
強烈な一体感のあるモノクロームの世界は
実に見事なサスペンス調を演出している。

でも、『反撥』は何と言ってもカトリーヌ・ドヌーブの演技なくては成立しない。
おどおどと何か脅迫概念に支配され、
おそらくは小さい頃のトラウマを抱えながら、
妄想に引き裂かれながら、次第に狂ってゆく様が実に素晴らしいのだ。 

しかし、映画を離れて考えてみると、
やはり、このポランスキーの感性が尋常ではないことがよくわかる。
映画を支配する異常性は
ポランスキーの感性の臨場感と呼応していると思わずにはいられない。
あたかもモダンジャズの閃光のように
それは観客の感性に直に訴えかけてくる強烈なインパクトがある。
一つ間違ったら、この映画でキャロルの神経を高ぶらせた狂気で持って、
ポランスキー自身が同じような目にあったとしても
不思議ではないかのような、そんな空気が支配している。
紛れれもない傑作は、かくも恐ろしいリアルさを孕んでいるのだ。